競馬の裏側で感じること
LANI in KYD 2016 by Coady Photography |
日本ではあまり知られていない華々しい舞台の裏側で起こっていることに対する、自身の考えを書いておこうと思います。
前回のブログで触れたケンタッキーダービー(KYD)こそ、米国ナンバーワンのレースであることは言うまでもありません。ここまでの盛り上がりを見せ、それが毎年続くのはKYD以外にないと思います。
ただ、その裏側で何が起こっているのかは、チャーチルダウンズ競馬場を訪れ、その光景を目にした人以外に目につかないと思います。
それは、ケンタッキーダービー開催への反対運動のことです。
Protesting to KY Derby
ラニが出走した2016年。前々日までは特に何もありませんでした。日本から来た調教師の方々の送迎をさせて頂き、レキシントン→ルイヴィル間を運転して競馬場へたどり着いたのみでした。
風景が変わったのは、ケンタッキーオークスが終わった翌朝のことです。
Nick Laham/Getty Images Sport/Getty Images |
多くの人たちがKYDへの反対運動を行なっていたのです。「エイトベルズは死ぬために走った」「競馬は馬を殺すためにやっている」「今すぐKYDをやめろ」というプラカードを持って、華やかなチャーチルダウンズ競馬場の外でデモを行なっていたのです。
華々しく着飾った女性たちが競馬場に吸い込まれていく光景と、反対運動の人々は全く真逆の光景。
競馬場に入る時はあまり目立ちませんでしたが、レースが終わった後に武豊騎手ご一行を乗せた私のクルマにとって、このプラカードは抜群の効果・・・。車中の全員が「こんなこともあるんだねー」と話題に挙げるほどでした。
結果として競走馬が壊れてしまうことは日常茶飯事。でも、全世界のホースマンが共通の祈りは「無事故」であること。
誰一人、自分が生産したり世話をしたり買ってきたり調教したりして、関わっている以上はその馬が無事に帰ってくることを願ってやまず、いかにして「壊れないか」を日々試行錯誤しているのです。
競馬の仕事に就いた以上、馬のおかげで人と出会い、お金を頂いて仕事をしている。
個々の意見がありますから競馬に反対されるのは自由ですが、それらの方々に「反対」ではなく「相互理解」を、「罵倒」ではなく粘り強い「対話」をお願いできないものかと、いつも考えています。
反対派も賛成派も、対話によって相互の理解を深め、新しい未来を創造したいという方がいらっしゃるならば、私個人はいつでもその対話の門戸を開きたいと思っています。
競馬ファンですが、馬を人間の娯楽として走らせている以上虐待と言われるのは避けられないし、実際虐待だと思いますよ。
返信削除開き直るしかないと思いますよ。
動物における虐待という「主観」は扱いが難しいんです。例えば・・・
削除・ 本来の生息地から無理やり連れてくるという意味で考えるならば、動物園も虐待の一環ではないでしょうか?
・ 競馬はNOで、馬場馬術やドレサージュはいいのでしょうか?
・ 馬を使った各種ショービジネスは肯定してよいのでしょうか?
・ 自然界では身につかない歩き方やお辞儀をしつけられるのは本当に虐待ではないのでしょうか?
と、まあ私がパッと想像しただけでもこれくらい出てきます。
競馬自体を虐待という人の気持ちもわかります。が、そこに人間がいてそれを生業にしている以上、業界の存在を否定することは、それら従事者の未来を閉ざすことになります。
個人的には、批判する側は正視眼的に競馬における事象を事細かに把握し、取材し、結論づけて、正当な批判活動を展開すべきだと思っています。
そこに挙げられた例は個人的には虐待だと思いますが、まあしかし結局は虐待の定義次第なんじゃないでしょうか。
返信削除> そこに人間がいてそれを生業にしている以上、業界の存在を否定することは、それら従事者の未来を閉ざすことになります。
虐待だからやめろといっているわけではありません。開き直ろうと言っています。私も競馬ファンですし無くなっては困ります。
開き直るのは一つの手ですが、その代わり、この手の争いが未来永劫に続くことになる。
削除競馬にかかわる関係者としては、全ての人に競馬を応援してもらいたいという気持ちでいます。競馬そのものは素晴らしいスポーツだからです。
が、現実的に救いたくても救えない、養いたくても養えない生命があることは確かです。その意味において、関係者・賛成派と反対派は、双方の気持ちの妥協点を探るべく、対話を続けていくべきだと考えます。